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 07年7月18日水曜日着手。   (広告および個人攻撃・誹謗中傷・個人情報の掲載・悪質な宣伝活動お断り。この警告を無視し禁止事項に触れた者には、IPの公開・プロバイダへの通報など厳重なる対応を取る事もあり得るのでそのつもりで。荒らすな!)
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 またあの忌まわしい日がやって来ますね。そう、クリスマスですよ(笑
 特にイヴの日は独り者が世間の風の冷たさをいや増して痛感する嫌ぁな一日ですな。
 家族友人が居る者はまだいい。でもリアルでろくに友達も居ない人間は身の置き所にも困る日である。
 (まぁ友達面してくるヤツが居ないわけでもないが、私の人間関係に対する基準は厳しいのですよ。ちなみに私はほぼ天涯孤独に近い身の上である。たった一人の肉親である妹とはもう何年も会っていない)
 パーティーに呼ばれても自分が何か場違いな人間のように思えてならない。
 よく「クリスマスまでに彼女を作らないと!」と焦る男の声を聞くけど、そういう理由で大急ぎで彼女作っても後々後悔する破目になるかも知れないぞ?人間関係は相手をよく見てから作るべきだ。
 本当の友達とか恋人というのは縁のもの、作為的にわざわざこしらえてもろくな事は無い。
 ただ、自分が「いいヤツ」になる事はできる。・・・かも知れないな。


 クリスマスといえば、思い出される物語はディケンズの『クリスマス・キャロル』と、オー・ヘンリーの『賢者の贈り物』だろうか。

【ニコニコ動画】「クリスマス・キャロル」 1/5
http://www.aozora.gr.jp/cards/000914/card4328.html
(青空文庫 森田草平訳『クリスマス・カロル』)

 『クリスマス・キャロル』の主人公、因業な吝嗇家、冷酷非情な実業家であるスクルージ爺さんは、3人のクリスマスの精霊の導きにより、クリスマスの朝、人間らしい暖かい心を取り戻す。
 作者であるディケンズは貧しい出身から身を起こして認められた小説家であり、だから彼の目を通して見た庶民の姿はとてもリアルで、それらの人々に向けた眼差しは優しい。
 『クリスマス・キャロル』が発表されたのは1843年の英国。産業革命の真っ只中であり、現代以上に社会の格差が大きく開いた時代である。
 二人目の精霊が自分の羽織る大きなコートの下から見せた、ボロを着て痩せ衰えた二人の子供の名を「無知」と「欠乏」と言う。
 明るく華やかで福々しい二人目の精霊の、コートの中の「無知」と「欠乏」。これは繁栄が内包する陰の部分そのものだ。
 (関係ないけど、手塚治虫が描いた「マンガの神様」はでっぷり肥った外見に反して、上着の下、正味の身体はガリガリに痩せていた。空前のマンガブーム、上辺の隆盛とは裏腹に、マンガそのものの本質は貧弱になっていないか?という問いかけ、警告だったそうな。これは『クリスマス・キャロル』から拝借したアイディアかも知れない)
 ディケンズの鋭い視線は、社会の貧困の原因の一つに「無知」がある事を見抜いていた。19世紀半ばという時代にしては優れた洞察かと思う。
 そしてその貧困は経済的な状態のみを指すのではなく、功利主義に凝り固まり金の亡者と化したスクルージの心も指している。
 スクルージは、貧しいながらも身を寄せ合って懸命に生きている貧しい人々の、互いを思いやる豊かな心を知り、むしろ大金持ちの自分がいかに貧しい人間だったかを知る。彼は無知ゆえに貧しかったのだ。
 本当の貧困は、心の貧しさを知らない事から始まる。頭ではわかっていても、人はこの真理を忘れがちだ。
 世界中で愛される物語であり、大抵の日本人も子供の頃に一度は読むほどであるが、何度読んでもいい話だ。


 オー・ヘンリーの『賢者の贈り物』も、貧しい人々の、しかし心豊かなクリスマスの物語である。
http://www.hyuki.com/trans/magi.html
(青空文庫 結城浩訳『賢者の贈り物』)
 貧しい若い夫婦が、互いの身を飾るための精一杯のプレゼントを相手に贈るべく、自分の大切な物を売り飛ばしてしまう。
 夫は、妻の美しい髪を飾る髪飾りを買うために、自分の宝物である祖父の代から伝わる金時計を売る。
ベリー・ショートなんてヘアスタイルは無かった時代だからね。 妻は夫の金時計を飾るための金の鎖(すばらしい懐中時計だが、唯一の欠点として、それに釣り合う鎖がなかった)を買うため、自慢の長い髪を売る。
 プレゼントを渡すその時には既に金時計も美しい髪も無く、プレゼントは皮肉なものとなってしまう。
 夫のジムは妻のデラにこう言う。
 「ねえデラ。僕達のクリスマスプレゼントは、しばらくの間、どこかにしまっておくことにしようよ。いますぐ使うには上等すぎるよ。櫛を買うお金を作るために、僕は時計を売っちゃったのさ。さあ、チョップを火にかけてくれよ」
 本物のプレゼントとは、自分の大切な物を投げ打って贈るものなのだ。
 彼らのプレゼントが実際に役に立つのはまだずいぶん先かも知れないが、必ず役に立つに違いない。


 寒さ厳しい季節にやって来るクリスマス。だから心を暖めあう。
 

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 青空文庫で、夢野久作の『死後の恋』を読みました。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000096/files/2380_13349.html
(青空文庫 夢野久作『死後の恋』)
(驚いた事にかなりの長編である、あの『ドグラ・マグラ』まである)
 映画にもなりました。桂枝雀の怪しげな演技が光ります。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya
/senya0400.html

(松岡正剛の千夜千冊 夢野久作『ドグラ・マグラ』)

 私はグロとか残酷描写が大嫌いで、スプラッタ映画など絶対に観ない人間なんだが、なぜか夢野久作には強く惹かれるのです。
 おそらくは作品が小説であり、あからさまに残酷描写が画像として突きつけられる事も無く、また夢野久作の狙い自体がグロ趣味そのものの追求ではないからかも知れません。
 ロシア革命について調べていたら、それを題材にした夢野久作の『死後の恋』に行き着いたのですよ。

 ロシア革命の動乱の最中、白軍の兵士になった二人の若者の、死を超越した、凄絶なほどに美しい恋の物語、といっても夢野久作の事だから一筋縄ではいかない。(若者の一人は実は娘である。腐女子の人は残念だったね)
 ネタばれになってしまうのであまり詳しくは書けないのだけど、私は一人の娘の死によって象徴された「文化の死」というものに感銘を受けた。
 語り部である頭のおかしな紳士は元々は貴族の出身で、赤軍のスパイの目を恐れて自らの知性と教養、貴族的な芸術愛好の習慣をひた隠しにして身分を偽り生き延びてきた。彼の目に映る革命とは、ツァーリ(ロシア皇帝)を頂点とした支配者階級が育んできた高度に洗練された貴族文化が、粗暴で愚かで下劣な民衆に無残に踏みにじられ破壊される過程でしかない。
 そして彼にとってその破壊は、獣のような赤軍兵士たちに陵辱されて殺された、無残ではあるがどこか美しい恋人の死体を見る事で完結する。娘は、臓物をむき出しにした下腹部に、結婚費用になったであろう家宝の宝石を散りばめて死んでいる・・・。
 貴族階級とその文化の終焉は、古めかしいが燦然と輝く宝石の一粒一粒に飾られた、美しい少女の屍によって結晶化されたのだ・・・。
 この、残酷で血生臭くグロテスクではあるが、奇妙な美しさを湛えた死体が象徴する「文化=芸術の死」によって、夢野久作はヴィリエ・ド・リラダンやユイスマンスに近づいているのではなかろうか。 

 産業革命以後、民主主義とともに民衆向けの安っぽい大衆文化が出現し、高い教養と素質を要求される高度に洗練された貴族文化は圧倒され、本物の芸術家の目にはそれら本物の文化は消滅してしまうに違いないと映った事だろう。(その俗物ぶりにエワルドを失望させた恋人アリシヤは、資本主義社会特有の立身出世に取り憑かれている。エワルド自身も産業革命のトップランナーである英国の貴族である。英国の貴族は国土の狭さのせいか、大陸諸国の貴族に比べて早くから「実業家」的性格を色濃く持っている)
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0953.html
(松岡正剛の千夜千冊 ヴィリエ・ド・リラダン『未來のイヴ』)
 
【ニコニコ動画】未來のイヴ オーケストラver. フル
 搾取され続けた民衆の蜂起と王侯貴族による専制政治の崩壊。または市民階級の台頭と支配階級の没落。
 それらの変化によって資本主義社会・大量消費社会が登場した。もはやパトロンたる支配者階級は存在せず、芸術家は大衆に仕える職人と化してしまった。
 19世紀の芸術家の多くに見られる懐古的態度の背後には、そのような気分、悲嘆が見られるのだ。
 (実際には芸術的素養を持たない貴族も多かったには違いないが、少なくともそれらを嗜むのは必須の教養ではあった。芸術家にしても時には幇間じみたご機嫌取りが必要だっただろうが、芸術的素養が皆無のパトロンの方が上手く言いくるめられて自由が利いたかも知れない)
 庶民階級出身のH・G・ウェルズや、労働者階級、貧しい人々に人間的な関心を持ったギッシングのような作家の作品にさえ、来るべき時代への不安と危惧、警戒が多く見られるのである。(そういえばギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』の主人公もユイスマンスの『さかしま』の主人公と同じく、騒がしくなってきた都市を逃れた隠遁者である。ギッシングは素朴な庶民の文化も愛していたが)
http://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/181.htm
(京都外大付属図書館HP ジョージ・ギッシング 『ヘンリ・ライクロフトの私記』)
http://itu.blog5.fc2.com/blog-entry-234.html
(カタヨリ紙 J・K・ユイスマンス 『さかしま』)

 ミームというのは、一言で言うと一方から他方へと伝播そして波及と増殖を繰り返して勢力を拡大する「文化の最小単位」、言い換えると「文化の遺伝子」だそうである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%A0
 実態が簡単に把握できない、少なくとも数字に直したり箱に詰めたりできない「文化」という代物が増殖したり進化したりするというと、まるで生き物のようである。
 生物の群れ、またはもっと大きく、「種」そのものを巨大な生き物の個体として考える人も(一部には)あるようだが(地球自体を丸ごと一個の巨大な生物として観るのが「ガイア仮説」である)、ならば「文化」というものも一個の生き物、少なくともその一部と考えても差し支えないと思う。
 革命というのは、不当に虐げられてきた被支配層の民衆が(大抵の場合暴力的手段によって)圧制者を覆す行動だが、ではなぜ民衆は革命を起こすのか?
 貴族など支配階級がその文化を発展させ維持させるために、民主を抑えつけ搾り取ってきたからではないだろうか?ではなぜ貴族たちにはそこまで民衆を抑えつける必要があったのだろうか?
 フランス革命直前、国庫が干上がり国力が傾くほどに王侯貴族たちが贅沢三昧に暮らした。
 マリー・アントワネットとルイ16世の頃には、夜毎ベルサイユ宮殿で絢爛豪華な宴が繰り広げられていた。
 (面白い事に、ルイ16世もニコライ2世も、ともに地味でどちらかというと家庭的な人物だったらしい。ごくありふれた平民の家庭に生まれた方が彼らも幸せだっただろう)
 貴族たちは、文化という暴君に仕える使用人であった、と考える事はできないだろうか?
 ロココ趣味は大袈裟で馬鹿馬鹿しく、そのケバケバしさがかえって俗っぽく見えない事も無いが、後のフランス文化は貴族たちがその土台を築いたのだ、と言えないだろうか?(高級フランス料理の元となったのは宮廷料理である)
 ひょっとすると、人間は文化という巨大な怪物に仕えるために存在するのではなかろうか。そしてその怪物は多くの民衆を圧迫し苦しめ、不満は暴力として爆発するほどに高まった。
 それほどに強大な力を持つのが文化という怪物ではないだろうか。

 21世紀の今日、怪物はますます膨れ上がり、さらに愚かになっている。
 この文化という白痴の巨獣、中身の無い数字を大量に食らって膨張を続ける化け物は、CDやDVDの売り上げランキングなどの商業上の数字だけでは飽き足らず、アマチュア創作家(数字に惑わされない純然たる創作家)の住む場所にまで押し寄せてきた。
(「正当」な評価と人気は必ずしも一致しない、むしろ一致しない方が多いのは言うまでも無い)
 ・・・イラストSNSには採点制度もランキングも要らないよ。

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 ポール・アンダースンというSF作家がいた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%B3
 アイディアが秀逸で、それなりに優れた作品を書いた人だが、どことなく作品のキャラの「育ちのいい感じ」が好きになれなかった。
 一般にハードSFは人間が書けていない、と言われる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89SF
 作品のアイディアの展開とその考証に追われ、心理描写も人物造形も不十分になりがちなのだ。
 そういう評価を気にしてか、この作家は作品によっては人間を書こうとはする。だが失敗する。
 登場人物に関する部分が、説明的で無機質で、血が通ったものとは言いにくい。
 そのうえ無理からにそういうやり方で陰影のあるキャラを書こうとするから、余計に不自然なのだ。
 生い立ちから現在に至るまでの人生、それは確実にその人物の性格に大きな影響を与える。
 苦労人にしては、なんか登場人物が「おぼっちゃん」っぽいのだ。人間というものが理解できていないからそうなる。
 SF作家には滅多に金持ちはいない。売れるジャンルではないからね。
 だがこの人は少なくともその人生で、大して苦労はしなかったに違いない。
 比較的に後期の作品である『アヴァタール』ですら、人間の描き方が上っ滑りで形式的なまんまである。
 (ヒトラーを好んで悪役として登場させるんだが、おおよそ子ども向きの作品でももう少しマシなキャラの立て方・人物造形ができそうなものだ。それくらいこの人のヒトラーは一面的で単純で薄っぺらでつまらない。キャラの表現が幼稚でガキっぽい)
 努力の跡は見えるが、ついに他人(つまり人間)に対して本質的・根源的な興味が持てなかったのだろう。だから描き方が皮相的で物足りないのだ。
 正直、こういう人とは親友になれそうもない。人間に興味を持てない人間と、友達になれますか?

 『脳波』。アンダースン初の長編。 この人の作品に『脳波』という長編がある。
http://blog.livedoor.jp/silvering/archives/31004859.html
 ある日、突如として地球上の生物(少なくとも脳を持つもの)の知能が爆発的に向上してしまう。
 どうやら、そのような作用を持つ宇宙線が大量に地上に降り注いだらしい。
 普通程度の知能の持ち主は天才になり、精神薄弱の人は従来の意味での「普通程度」になり、動物たちは人間に対して従順では無くなる。
 社会は大混乱である。何が一番困ったか。
 工場労働者は「知能が高くなった」せいで退屈な仕事に耐えられなくなり職場を放棄し、工事現場から人は消え、交通機関も運転手がいなくなってストップする・・・。
 ・・・お前何様のつもりだ、アンダースン!
 肉体労働・単純作業の重要性を説くと同時に、バカにし見下しているのだ。
 ・・・まぁ、ある意味、真実を突いているのも否めない、とは思うが。
 
 人生経験が乏しい人ほど、世間の汚い部分を知らない連中ほど奇麗事を並べ、上っ滑りでありきたりなお題目・ヒューマニズムを唱えるが(天童よしみはすぐに「浪速のど根性」などというが、知的かつ貧乏な大阪人ならば、口が避けてもそのような手垢の付いた頭悪げな恥ずかしい言葉は吐かない)、私はハッキリと真実を言う。
 肉体労働者にはバカが多い。低能が多い。全てそうだとは言わないが(理由は後述)。
 最低限の知性というものが感じられない。人というよりはそれ以外の類人猿に近いのさえいる。
 こういう連中は、相手が自分より立場が弱いとたちまち残酷になる。
 自我が未発達で想像力が欠落しているから、困っている人の辛さ・苦しむ人の痛みが理解できない。
 感受性も鈍いので、痛みそのものすら理解できているか怪しい。だから弱者を平然と差別し虐待する。
 つまり、人間性という点からして最低レヴェルの者が多いのだ。
 (「頭の悪い者ほど、心が清らかである」などと抜かすヤツはただの世間知らずだ。手塚先生、あんたもな)
 (アメリカでの調査では、自主性・創造性を要求されない職種の者ほど、差別意識が強い、という統計結果が出ている)
 自分から自発的に行動して判断する主体性を持たないので、当然管理職や自主性・個性・表現力を要求される職業にも向かない。豊かな創造性を求められるアーティストや、高度な判断力を要求されるスポーツ選手には間違ってもなれない。 
 どう転んでも肉体労働・単純作業にしか就けない人種である。
 が、逆に考えれば、そういう者どもであるからこそ、変化に乏しくて退屈極まりない機械的な、人間性を磨耗するだけの労働に適しているとも言える。始めから人間性など持たないから楽なものだ。
 専門的なスキルの持ち主、創造的な職種に就く人ならば、少なくともそのような資質を持つ者ならば、長時間の単純作業は怖ろしく退屈で、心身ともに重い疲労を負うものだ。そして人間性は確実に磨耗していく。
 元から人間性に乏しい者と比べると、言動にはまだ人間らしさは残っているのだが、その顔つきには深い疲弊が刻み込まれている。

 秋葉原通り魔殺傷事件。連行される加藤容疑者。 不景気、というより雇用形態が根本から変質し、昔のように、「努力すれば後は会社が全て面倒を見てくれる」、といった終身雇用制は崩れつつある。大学新卒でさえあぶれている場合も少なくないのだ。
 だから永年勤めてきた会社をクビにされ、あるいは就活当初から仕方なく慣れない肉体労働・単純作業に就く人も少なくない。
 何らかのスキルを身につけた人はまだいいが、そうでない者は筋力を金に換える他無い。しかも正社員としての雇用でさえない。
 ここに、知性も人間性も劣った者が、そうでない者を足蹴にし踏みつけるといった、不合理で理不尽で筋の通らない状況が現れる。アルバイト、パート、派遣の人間はとても立場が弱いからだ。
 自分より知性も人間性も劣った者が、より人間らしく優遇され、自分は明日さえ知れない不安定な身分。
 秋葉原の通り魔殺人事件の犯人は、確かに問題の多い人格の持ち主だが、経済的に不安定な生活に追い詰められ、未来は見えず、そして最後の財産である自尊心さえボロボロだったのではなかろうか。
 
 『脳波』のような作品が、生きるためにやむなく肉体労働に就いた人間が書いたものならば、作品全体に、自嘲雑じりの暗く悲しげでペシミスティックなトーンが漂うはずだが、やはりどこまで行っても、登場人物は薄っぺらく皮相的であり、人間関係も図式的だ。・・・高い位置からアリなどの社会性昆虫でも見下したような目線なのである。生活や人生に苦労している人間ならばそうは書かない。愚痴らしいものも出る。
 優越感と言う下衆で汚らしい(しかもそれ自体がその人物の程度の低さを物語る)感情こそ見当たらないが、それこそ知識階級も低所得者層も同様にして科学者のような冷徹な目で見ているが、だからこそ頭の悪い差別主義者よりタチが悪い。
 高いか低いか、高度か低レヴェルか、という単純化(二極化)がなされれば、「低い」「低レヴェル」の人間はただ「低い」「低レヴェル」だけで片付けられてしまう。人間としての評価は皆無だ。 
 現実の人間はそのように単純に割り切れるものではなく、またどうしようもない仕儀で低きに交わる高き者の存在も無視してはいけない。アンダースンは性急なあまり、砂利に雑じった宝石すら一緒くたにしてしまう。
 (往々にして学者というヤツは、物事を単純な法則に還元して考えたがる。「人間も銀河も素粒子も、オレ様にかかればチョロイもんよ」とでも考えているのだろう。時としてむしろサラリーマンなどより頭悪そうな学者も見られるが、つまりそういう理由なのだ。物事を単純に見すぎるのだ、まるで幼児のように)
 『脳波』、結末としては、実は地球人は、宇宙的規模の要因により知能の発達が遅れていた反面、それを補うため学問や科学技術を発展させ、それによって生物として限界値ぎりぎりまで知能を高めていたため、一気に知能が高まった今度は逆に天才的な知的種族となっていた・・・というオチである。
 だったらなぜ全ての人間の知能を押しなべて高くしないのだ?アルジャーノンみたいに?
 つまり・・・単純で退屈で、人間性を喪失させてしまう労働に就かせるための、奴隷のような家畜のような機械のような、心身の苦痛を何とも思わない、蒙昧で愚鈍な「層」の必要性を認めている、というわけだ。
 
 子どもの頃、自分の父親は境遇に恵まれないから、世をすねて才能を発揮できないのだ、本当はもっと知的な人間なのだ、本来なら慈愛に富んだ誠実で親切な人間なのだ、と思い込んでいた、というか思い込もうとしていた。
 だが成長するごとに、多くを知るたびに、父親が度し難い低能で、それゆえに他人の痛みが理解できないクズ野郎であるという残酷な事実に気づかざるを得なくなる。自分をごまかせなくなる。
 頭も性格も悪いゴミクズ人間というものは、厳然として存在する。
 だから子どもの頃は、人間はいつか社会から、頭の悪い低能やそれを必要とする肉体労働・単純作業を、永久に消滅させるものだと夢想していた。全ての人間が聡明で人間味のある人になるものだと。あらゆる差別も争い事も根絶された世界が現れる・・・。
 肉体労働・単純作業の一掃。少し考えればわかるが、そんな事をすれば社会には職を失った労働者が溢れかえり、社会不安はやがて暴動を引き起こす。歴史上既に、産業革命期の英国でそのような運動が起きている。
 心底、全ての人間が聡明になる事を、切に願う。が、現実は、どうしようもないのだ。
 おそらくアンダースンには、少なくとも骨身に応えるほどの肉体労働・単純作業とその人間関係に悩まされた経験は無いだろう。それは文章を読み進めばすぐにわかる。
 だが学者らしい冷徹な目線で、社会の階層構造と生物学的なヒエラルキーの密接な関連、対応関係を看破したのである(ミネソタ大学で物理学を専攻)。その現実を当然として受け入れ、全く問題とは思わない呑気さが腹が立つな。
 人は高いところからでは、決して本当に世の中の本質は見極められない。見極めていたら問題視するはずであり、そもそも間近につぶさに見る機会があれば、社会というものが簡単に割り切れない事にも気づくはずだ。

 社会に奴隷労働が必要だから、働きアリの如く、愚鈍で人間らしさを欠いた奴隷が発生するのか。あるいはその逆に、生まれながらの奴隷がいるから、それに食わせるための奴隷労働が存在するのか。(どちらにしても悲劇だ)
 本来ならば奴隷ではない人間が、そのような立場に身を堕とさねばならない事情は改善できないのか。(秋葉原の惨劇は繰り返す?)
 本来ならば「そこ」に居てはならないゴミクズが、贅沢三昧に暮らし遊び呆ける理不尽と不合理は、糾される事は無いのか。(役人天国は喜劇でしかない)
 階級社会、支配者と被支配者の対立、抑圧された者たちの蜂起と革命をテーマにしたSFもあるにはあるが、それを社会科学と生物学(人間という種族内での生物学的ヒエラルキー)の両方から同時に取り組んだ作品の、少なくとも成功例は知られていない。(シルヴァーバーグあたりが書いてそうだが?ひょっとして存在しないのか?)
 微妙な問題ゆえ、書くのが難しいのか。それとも・・・?

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 最近は日中暑くて、夕方にまどろんでそのまま本気寝して、深夜に目が覚める事が増えました。
 で、この季節らしいネタ。E・A・ポーの書いた西洋化け猫の話である。


 先日、saneyukiさんからのコメントにお答えした時に、「同じものを二度買ってしまう」と書いたのだが、その一例を一つ。
 E・A・ポー。怪奇小説とミステリーとファンタジーとSFをまとめて先駆者したお方である。
 その短編『黒猫』所収の本を2冊買っちゃったのですよ。

 中々オサレな表紙絵である。原作どおり、黒猫の片目がつぶれているのに注目。 一冊はありふれた集英社文庫。富士川義之・訳、1992年5月25日初版・1995年6月14日第4刷のものである。約280ページ。
 収まっているのは『リジーア』『アッシャー家の崩壊』『ウィリアム・ウィルソン』『群集の人』『メエルシュトレエム』『赤死病の仮面』『黒猫』『盗まれた手紙』の八篇に解説。種村季弘の文章まで付いている。380円にしてはがんばってるかと。(古本だから100円だった)
 表紙の「光の反射」に注意!

 もう一冊は今は珍しい布張りで堅い表紙の新潮文庫。佐々木直次郎・訳、昭和26年8月15日発行・昭和30年9月1日第8刷とある。表紙に旧漢字で「図書館用」と記されている。約150ページ。所収作品は『黒猫』『アッシャー家の崩壊』『黄金蟲』『メエルシュトレエム』の4篇。
 いかにも時代が出てていい感じ。ブドウのマークはこの頃からあったんだね。 値段は「特価」70円(当時。うち製本代が10円だそうだ。当然これは古本で、40円で売られていた)
 表紙こそ立派だが、時間による経年変化(というか劣化)を計算に入れても、紙の質はあまり高くないようだ。奥付けには検印があった。

 内容は重複する部分が多いが、同じ内容のものでも発行される時代によって、字や仮名遣いが異なるどころか、文体、果ては微妙ながらも内容にまで差異があったりする。この2冊は一方の表紙のせいか、厚さは両方とも同じくらいだけど。
 読みにくい旧字・旧仮名遣いの意味を「推理」しながら読み進むのも楽しいが、文体のタッチの違いも各々の時代の空気が感じられて面白い。
 ちなみに『黄金蟲』、NHKの松平さんによると「こがねむし」と読むそうだ。
 ゴールデンウィークに2ちゃんねるにいきなり急増する厨房を「黄金厨」と呼ぶけどね(笑 
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E9%BB%84%E9%87%91%E5%8E%A8

 富士川義之(1938年 9月13日~)訳の『黒猫』の冒頭部分。
 「いまここに書き記そうとしている、ひどく途方もない、しかしそれでいてひどくありふれた物語を、信じてもらえるとも、信じてほしいとも思わない。そんなことを期待したなら、本当のところ、狂気の沙汰ということになるだろう」。

 佐々木直次郎(1901年 3月27日~1943年 5月24日)訳。
 「私がこれから筆を執らうとする極めて奇怪な、だが極めて修飾のない物語に関しては、私はそれを信じて貰ふことを期待もしなければ懇願もしない。自分の感覚でさへそれの経験したことを信じないやうな場合に、他人に信じて貰はうなどと期待するのは実際気違ひ沙汰であらう」。(漢字ももちろん旧字である)

 同じ内容の本を二冊買うにしても、こういうのはいいかも。
 古本は楽しいな。

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 王女デジャー・ソリス。豊満な女体ながら、その面立ちは清楚で気品がある。ある意味、理想の女性像である。男にとっての。 E・R・バローズという小説家をご存知だろうか。
 ターザンの生みの親である。ヤク中のオッサンではない。
http://www.princess.ne.jp/~erb/index.htm

 いいねぇ、『火星』シリーズ。
 悪人はあくまで悪く、美女はあくまで美女である。
 主人公はバカみたいに強く、幾多の危機もなんのその、必ず最後に勝利する予定調和ぶりも清々しい。
 色々考え事ばかりしているとバカになる。本格的にバカになる前に、予防薬として擬似的にバカになる事をオススメする。
 バカを装う小賢しいバカはカッコ悪いが、何も考えていないバカはかえって気持ちいいね。
 バカ小説、万歳。

 あつじ先生はイスラム好きで有名である。『シンバッド』なんて描いてるね。だからエキゾチックなデザインもお手の物である。ジョン・カーターもデジャー・ソリスも少年少女みたいなのは、やはり若い層をターゲットとしているためか。 私は古い小説などは古本で入手可能な場合、それを選ぶ。古ければ古いほどいい。
 表紙絵や挿絵が付いている場合、当然、絵も古いわけで、それが時代の匂いを感じ取るヨスガとなるからである。
 武部本一郎など、以前はただ古臭いだけのように見えたもんだが、最近の洗練されてテカテカしてて完成度が異常に高い絵を見慣れた目には新鮮でもある。
 バローズの再評価に伴って、武部本一郎も画集が出版されたそうである。面白そうだな。
 一方、21世紀になってからのバローズ絵師と言うと、山本貴嗣だったりする。
 こういう変遷も興味深いね。これも古いロングセラー小説の楽しみ方の一つであるなぁ。

 「火星のプリンセス」デジャー・ソリスは、囚われの身だとすぐに全裸にされ硬く冷たい拘束具に縛められ、陵辱された末に殺されそうになったりするが(すんでのところで貞操も生命も救われるのは「お約束」)、要するに、荒々しい男の世界では、女性は男の私有財産にすぎない。分捕ったり分捕られたりするものなのである。
 スペース・オペラやヒロイック・ファンタジーでよく見られる「お姫様救出」、これは文明人(の男性)向けに見た目を良くした「女性略奪」に他ならない。白馬の王子様と荒くれの山賊は、ただベクトルが逆なだけである。
 ちなみに女性が喜ぶ「お姫様だっこ」。あれって原始時代の部族社会の「女性略奪」が転化したものだから(笑 
 昔は、土地によっては「略奪婚」が一般的だったのである。モンゴルとかね。女性を他の部族から分捕るために戦争を仕掛けていた時代もあったのだ。
 ヨーロッパでは、新婦が新郎に抱きかかえられて新居に入る仕来たりがある国もあるほどだ。
 つまり、「お姫様だっこ」を喜ぶ女性は、潜在的に「略奪」されたいという願望を持っているわけだ。
 (オレも昔言われた事があるよ。「もっと乱暴にぃ、物みたいに扱ってぇ~ん♪」て^^ご期待に沿えずスミマセン・・・)
 だからといって、「女性略奪」は正当化できないぞ。それは犯罪だからな!(笑
 「略奪」された女性を待つ運命が決して幸せなものではない事は言うまでも無い。最悪の場合、ただ男たちの性欲の餌食、散々慰み者にされた上で売り飛ばされ、見知らぬ異郷で惨めな境遇のまま死ぬ事もあった。

 「お姫様だっこ」、女性によっては文明人の男性にとって体力的に大きな負担となるケースもある。
 女の子って、自分がそう思いたいほど、軽くないのだ、・・・体重が。

 セクスィーポーズのたぬ吉さん(♀)。小柄なのに5.3キロと、♂並みの体重。米袋と同じ重さである。 ←わが家のお姫様。抱っこを嫌がる癖に、ひざの上には乗りたがる。結構デブ豊満な女体なので重い・・・。

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[05/14 文をどこで止めれば言いかでわけわからなくなってる人、まあKYだろうね]
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プロフィール
HN:
j.k
性別:
男性
職業:
てんしょくってなに?
趣味:
やればできるこです。やりません。
自己紹介:
 王様の耳はロバの耳。そうハッキリ言う人です。
 王様は裸だ。そうハッキリ言います。
 王妃様も裸だ、とは言いません。うぇっへっへ。
カウンター
NHK時計ですよ。
※この時計の時刻は、閲覧しているパソコンのものであり、必ずしも正確な時間とは限りません
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