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 07年7月18日水曜日着手。   (広告および個人攻撃・誹謗中傷・個人情報の掲載・悪質な宣伝活動お断り。この警告を無視し禁止事項に触れた者には、IPの公開・プロバイダへの通報など厳重なる対応を取る事もあり得るのでそのつもりで。荒らすな!)
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 pixivとか、イラストSNSで猖獗を極めちゃってるのがトレパクとか無断転載ですけど、二次創作からして実は法的にかなり黒っぽいグレー、というか厳密には真っ黒だと言う事実は誰でも知ってるかと思う。
 でもやはりそのあたり、実際にはどうなのか気になったので詳しい人(だと思う)数人に意見を伺ってみました。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question
_detail/q1134219561


 二次創作でも一応は著作権がある、というのが皆さんの一致した見解のようですな。法律と言うのは状況と解釈の違いで判決が変わる場合も往々にしてあるから、これが絶対です!とは言い切れないけど。
 こちらはwikipedia↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E5%89%B5%E4%BD%9C%E7%89%A9

 たとえ元ネタに対して許諾の下りていない二次創作や、ずばり盗作であっても、「創作」と名が付けば一応は著作権(複製権・翻案権・同一性保持権)があるもの、と考えるべきだそうな。
 泥棒が盗んだものを他の泥棒にまた盗まれたとしても、盗難届けを出す事自体は出来るのと同じ理屈か。
 ただ「自分の所有物が盗まれました!」と届けた物品もその実「盗品」である事が発覚した場合(つまり2度盗まれたわけだ)、届出を出した泥棒も手が後ろに回るのは言うまでもない。そういう事態に陥った場合、それこそ「盗人猛々しい」と世間の物笑いになるのだが。
 
 二次創作でも違法性が疑われるものには、以下の四つのものが考えられる。

1.著作物そのままを用いた作品(複製権の侵害)
2.著作物を改変しているが創作性が認められない作品(複製権+同一性保持権の侵害)
3.著作物を改変しており創作性が認められる作品(翻案権+同一性保持権の侵害)
4.著作物を改変し創作性が認められ、原作の本質的特徴を失っている作品(別個の著作物とみなされるため合法)

 wikipediaの記事によると、pixivなどのイラストSNSには、他人の作品を自分の作品と騙って発表する不正行為(大抵は無許可である)つまり無断転載も少なくないが、これは1.の「複製権の侵害」に当たる。
 コミケなどでかなりの割合・量が流通しているエロ同人誌などは大半がアニメやゲームの既存のキャラを題材にしたものであり、これは2(複製権+同一性保持権の侵害)または3(翻案権+同一性保持権の侵害)に当たるとされているが、どちらに転んでも著作権法に触れている点には変わりが無い。
 要するに、誰かが先に作り出したものを権利者の許可が無いまま使う場合、全くいじらないで(無断転載または内容そのもの、つまり登場人物から構図や彩色までトレスする100%完全なトレパクなど)そのまま使えば複製権に、二次創作作者なりの作風に変えてはいても元ネタの模倣である場合は、この場合デザインなどが「改変」されているので、複製権に加えて同一性保持権も侵害したとされるのである。
 原作者(権利者)の創造した世界観や登場人物を丸ごと流用し、意図が明確な二次創作作者独自の改変(オリジナルの登場人物やストーリーなど)がある場合は「創作性」があるとし、こちらは翻案権と同一性保持権の侵害に該当する。(このブログの先の記事にあるメアリー・スーもこれに当たる。原作のイメージを損ね権利者に不利益をもたらす恐れがあり、訴えられればアウトになる可能性が高い)
H・P・ラヴクラフト。ファンたちが自分の作品の二次創作を書く事をむしろ歓迎した人。ZUNの先駆者。 ラヴクラフトのファンたちが創作した一連のクトゥルフ神話作品などは周知のとおり法的には全く問題が無く、ファンと作家との交流には心温まるものさえ感じられる。だが、それらの「派生的作品」が原作者に無許可で発表された場合は、間違いなく翻案権と同一性保持権の侵害とされる。
 (ロバート・ブロックが書いた『星から訪れたもの』という短編小説にはラヴクラフトをモデルにしたとされる小説家が登場し、惨たらしく殺されてしまう。これは事前にラヴクラフトに許可を求めており、ラヴクラフトも「神話作品」の登場人物との連名での「許可書」を与えている。元ネタ作者からしてノリノリなのだ。これについては他のファンから「ラヴクラフト先生もブロックを殺しては?」という提案があり、これに応えたのが『闇をさまようもの』という作品である。登場するブレイクという小説家はブロックのもじりであるが、ウィリアム・ブレイクの逆立ちしたパロディかも知れない。ロバート・ブロックはユダヤ人であり、このやり取りからもラヴクラフトの人種主義が結構「いい加減」なものであった事がわかる)
 ちょっとよく理解できないのが「キャラクターは抽象的な「アイディア」であり著作物そのものではないため、複製権の侵害にあたらないという解釈がある」という件。創作作品ではない「特許」などもそのものは著作物では無いんですがね。図像や文章にすればOKというのなら、そもそもキャラクターはまず図像なんですが?
 (ちなみに著作権はその作品が世間に発表された瞬間に発生する。幼稚園児の落書きにも発生する)
 知的所有権というのはよくわからない部分があるな。とにかく脳内にあるキャラデザインなどのアイディアは他人の目に見える形・確認できる形式にしておけ、という事だ。そうしておけばそのアイディアを知った他人が真似した場合に複製権あるいは翻案権の侵害に当たる、と指摘できる。

 イラストSNSそしてそれ以前に同人誌などで毎日のように発見され、膨大な数に上るトレパク。
 構図をトレスし、外見上の特徴である顔や服装などを改変した、やや巧妙な手口も多い。(トレスの元ネタを「ラレ」、パクった方を「パク」と呼び慣わすようだ) これだと「ラレ」作品を知らない人はそのまま騙されてしまう。
 こういう例は「翻案権と同一性保持権の侵害」に当てはまるのだろう。
 詳しくない人には「構図くらい真似してもいいだろ」という意見もあるだろうが(絵を描かない人に多いね)、「百聞は一見に如かず」、こちらを見て欲しい。↓
http://s7.artemisweb.jp/pktr/index.htm
(単発トレパク疑惑検証保管庫 R-18注意!
http://seiga.nicovideo.jp/search/tag/pixiv
(ニコニコ静画 タグ「pixiv」を含むお題)
http://www37.atwiki.jp/honi-honi/pages/90.html
(pixivウォッチスレAA保管庫@wiki - ヒナヒナ)
この人は10割打者だと言われている。トレパクではない絵を探す方が大変らしい・・・。 ←(その一部を抜粋)







 ↓こちらは同じ作家が不正行為をネット上(主に2ちゃんねるだが)で糾弾された以後に投稿したもの。トレパク無しの本来の画力で描かれた、とされる作品である。
http://www.pixiv.net/bookmark_illust_user.php?mode=s_tag&illust_id=7700736
(なぜ絵のURLを直接貼らないかというと、これにはわけがある。この絵をブックマークしたユーザーを幾つか適当に調べてみて欲しい。かなりの割合でごく最近に登録したユーザーであり、しかもIDナンバーが近い数字のものが多いのだ。その上この絵一枚しかブックマークしていない者が多い、という状況から導き出される推論は・・・?恥の上塗り、反省の色が見られない。そこまでしてランクインしたいものなのか・・・。ホント、運営は仕事しないな。それとも故意か。だとすれば自殺行為である。轟そらや東京幻想の例で全然学習していない)
 上に挙げたヒナヒナという作家は、同人誌でも同様の行為を働いており、既に利潤が発生している。
 たとえ印刷その他の諸経費を利益から差し引いた純利益がゼロあるいは赤字であっても、原作の印象を損ねた場合などは権利者に不利益となる危惧もあり、これも十分に起訴の理由となり得る。
 版権もの、二次創作の同人誌など今時珍しくも無いが、ヒナヒナ作品では「二次創作の元ネタとは無関係な別の作家の翻案権と同一性保持権の侵害」という、別の点でも問題が発生している。
 二次創作の場合、権利者が許可または好意的黙認をしているケースも多いが、ヒナヒナの場合は当然トレパク元の作家に対する許可も同時に必要となってくる。どうもこの点が怪しいらしく、ラレを指摘された作家の作品についての謝罪も行われているらしいのだが、発言と行動に矛盾が見られるようだ。(すぐに活動再開したばかりか、新作に複数アカウントによる自演疑惑があるってどんだけですか。上辺だけの謝罪で反省と誠意が見えないよ)
 ヒナヒナの絵の元ネタの一つである東方シリーズなどは作者のZUN氏が許可しているので、二次創作は法的に(一応は)問題ない。(二次創作に宣伝効果を認める権利者も多いのだ)
 だが権利者の許諾の無い二次創作で、その上更にトレパクがあれば(改変の無い完全トレパクなら複製権の侵害)、厳密にはこれは二重に著作権法違反である。

 著作権法違反は親告罪であり、権利者の申し立てが無い限り違法とはされない。権利者やファンまたは「第三者」の不利益になるような作品でも、権利者がOKを出していれば罪には問われないのである。
 (お気に入りのキャラがレイプされている絵があっても、原作者が起訴しない限りは罪にならない。現実の強姦罪と同じ、というわけですよ萌えヲタの皆さん。あぁ、萌えヲタ的にもOKか)
 だが権利者が本気を出した場合、大変な事態になる事も確かなのだ。
 もう何年も前の事件だが、『ポケモン同人作家逮捕事件』という先例がある。
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GGLL_jaJP352JP352&q=%e3%83%9d%e3%82%b1%e3%83%a2%e3%83%b3%e5%90%8c%e4%ba%ba%e4%bd%9c%e5%ae%b6%e9%80%ae%e6%8d%95%e4%ba%8b%e4%bb%b6
(google検索 ポケモン同人作家逮捕事件)
http://my.reset.jp/~yuhto-ishikawa/fujoshi/pokemon.html
(腐女子妄想大解剖 『ポケモン同人作家逮捕事件がもたらしたもの』)
 小学館や任天堂は日本社会の慣習、社会通念という観点から見れば不合理かつ「大人気ない」企業かも知れないが、法的には全く間違った事をしていない。お客の層には心証を悪くしたかも知れないが行動は正しい。

 二次創作は多くの場合、権利者側の「好意的黙認」の上に成り立っている。
 二次創作作家たちは、自分が実は極めて不安定な立場にある事を、ゆめゆめ忘れてはならない。

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ディケイド見た事無いです。 メアリー・スーって知ってますか?私はつい最近まで知りませんでした。
http://bmidvar.paslog.jp/article/1059722.html
(人気低下ブログ 『仮面ライダーディケイドはメアリー・スー』)

 要するに、現実の自分と境遇に強い不満がある人物が、満たされない願望を慰めるため、他人がこしらえた既存のフィクションの世界に送り込んだ「極端に美化された自分の分身」を指すらしい。
 何をやっても卒が無い、マルチタレントで頭脳明晰スポーツ万能文武両道、おまけに超美形で友人同僚たちからチヤホヤされまくりの人気者。つまり最強無敵の鼻持ちならないチートキャラが二次創作に出てきたらそれはメアリー・スーです。
 (性格についての言及はほとんどなく、「美形」だの「セクシー」だのと容姿の描写に終始するパターンが多いらしい)
 こんなもの読んでも書いた本人以外面白いわけが無い。痛いだけでなく不愉快でさえある。
 作者のナルシストぶり、その背後にあるどす黒い欲求、惨めったらしい劣等感、世間を呪う怨嗟の声。そういったものの生臭い臭いが強烈でとても最後まで読めたものではない。(奇妙な事だが、強い劣等感の反動でナルシストになる者もいる)
 しかも(「メアリー」以外は)他人の作った出来合いの舞台・登場人物をそのまま(まず許可無しに)流用しているのだから質が悪い。
 生理的レヴェルで不快なのである。
 
吉右衛門はいい役者だと思いますよ。 昔ずいぶんほめたし、よく書けているとも思うけど、私は『鬼平犯科帳』とか『剣客商売』とか『雲霧仁左衛門』の主人公にメアリー臭を嗅ぎ付けてしまう。
 どちらも二次創作ではなくオリジナルだが、長谷川平蔵宣以という人物は18世紀の実在の人物だし、雲霧仁左衛門も享保年間の実在の盗賊で、こちらは講談や歌舞伎にまでなっている。(秋山小兵衛の名前は確か鬼平犯科帳にもちょっとだけ登場する)
 一応は「創作」(商業作家だから当たり前だ)だから厳密には(正確には)池波正太郎の創造したキャラはメアリー・スーには当てはまらない。
 だが作者本人の臭いがプンプンするナルシスティックな要素などは、メアリー・スーに通底する部分が大きいかと思う。私は創作行為については厳しいのですよ。
 池波の主人公って「人間臭さが売り」とか言われてるけど、長谷川平蔵にしろ秋山小兵衛にしろ雲霧仁左衛門にしろ周囲から尊敬されチヤホヤされてばかりで優秀すぎて大きな欠点がまるで無い。二次創作でのオリジナルキャラでないという点を除けば、まんまメアリー・スーである。
 (美形ではないが容姿についての描写は克明である。ちなみに小説の鬼平は丸顔で小肥りだそうな。もちろん実在の長谷川平蔵宣以の姿形など記録としてどこにも残っておらず、完全な創作だろう。一方で性格は「ただの人格者」でしかない)
 物語や文章は優れているけど人物造形は極めて薄っぺらいんですよ。誰かを崇拝しないと生きていけない、女子中学生や萌えヲタじみた小市民のための安っぽいアイドルに過ぎないんですね。
 ただ池波は舞台の脚本家として鳴らした人だから、キャラクターの配置のバランスが絶妙に上手い。
 主役を引き立てるための脇役の重要性をしっかり意識している。だから臭さが目立たない。香りのきつい香辛料でごまかされた腐った食べ物も味覚が単純素朴な人なら気づかない。
 でも「大衆文学」としては人物造形が巧みで長編での構成力が高い中里介山よりむしろ退行している。
 そもそも現実には絶対に存在し得ない神の如きスーパーマンを主人公として登場させて、それを物語として(少なくとも近代以降の人間が読んで)不自然と感じないのは、物語の作者として致命的欠陥ではないか。
 池波キャラの多くが過去のある人間として暗い面を持っている、という指摘もあろうが、それがマイナス面ではなく「かっこいい」とされている時点でやはりセンスが幼稚である。悪に憧れる中学生みたいなものだ。
 何だかんだ言っても、司馬遼太郎や藤沢周平に比べてたら三流なんだよ池波って。

何度も言うけど、B・Jはマントなんか羽織ってないぞ。あれはコートなんだよ。 よく、「作者が顔を出している」って言いますよね。「あの主人公は作者本人の投影である」とか。
 この事自体は悪い事ではなく、それどころか作者が身を入れて執筆するためには必須事項かも知れない。
 手塚治虫の『ブラック・ジャック』などは作者自身が「私の分身です」と明言している。(本人も出てるけどね、友人の医者役で)
 だがB・Jをメアリー・スーだとは誰も言わないでしょ。(まぁ完全オリジナル作品だけどね)
 これはつまり、B・Jというキャラクターが欠点の多い人間だからです。
 世間からは金の亡者だの悪徳医師だの言われ、彼を理解してくれるのはごく一握りの人に過ぎない。
 孤高のヒーローといえば聞こえはいいが、実際に心の醜い部分を垣間見せる事もある。易々と読者に感情移入を許さないキャラです。
 (平凡でありきたりなキャラほど多くの人たちから支持されるのは、読者が各々勝手に思い入れる余地が広いからである。ただしそれが通用する商売は自我が未発達で個性が未分化な若年層相手に限られる。「自分」が出来上がっており他者にも個性を見て取れる大人には、没個性なキャラは全く物足りないものだ)
 どうして鬼平とB・Jでこうも差が出るのか。
 これは作者が主人公に託すものが全く違うからである。
 池波と違い手塚には「チヤホヤされたい」という願望が無い。
 手塚が感じ、思い、考えた事をメッセージとしてダイレクトに伝えたいがためだけにB・Jは存在する。
 逆に鬼平からはメッセージどころか、個人としての信条すらも読み取れない。
 「オレってすげぇだろ、カッコイイだろ憧れるだろ」という未熟な自己顕示欲と幼稚な自己陶酔ばかりが鼻に付く。
 手塚もなるほど、欠点の多い人間ではあったが、自分の醜悪な部分までを見徹す冷徹な視線を持っていた。だから分身であるB・Jはナルシストのスーパーマンにはなり得ない。(B・Jがマジで悪人に見えるエピソードが時々ある。復讐の鬼だったりするし。少なくとも単純な人情家では決してない)
 また当然ながら人格・能力(それに容姿)全て満点のスーパーマンが実在し得ない不自然な存在である事にも気づいていた(普通は気づくだろ)。
 手塚は大人なんですよ。
 
 興味深い事に、手塚は非常に目立ちたがりで、TV出演の依頼があれば忙しくても無理をして出演したそうである。池波にはそういう話を聞かない。
 手塚の主人公がメアリー・スーでないのは、作者が現実世界で自己顕示欲を十分に満たしていたからか(笑

 『地獄八景亡者戯』をやる度に「近日来演」と言ってました(笑 ・・・だんだん心配になってきた。 桂米朝が言っていたけど、上手い噺家の落語は聞いているうちに「演者が消える」そうである。
 もはや誰が語っているのか気にならない、それくらいに聞き手を没入させてしまうのが優れた噺家だそうだ。
 鬼平は池波そっくりの顔をしているのではないか、そう思うくらい池波作品は演者が消えない。
 作劇の技術は大したものだが、作者のメンタル面での未熟さ・性格上の欠点が池波作品には目立つのだ。
 これは映画俳優にも通用する法則らしい。ジョニー・デップなどが好例か。
 デップといえば奇妙な役どころばかり好んで演じる事で有名だが(『チャーリーとチョコレート工場』の撮影現場を訪れた自分の子供に「お父ちゃんまたこんな役か」と呆れられたそうである・・・)、「ごく普通」の外見をした仕事に『エド・ウッド』という映画がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%89 
『プラン9・フロム・アウタースペース』。アメリカ人なら誰でも知ってる「史上最低映画」だそうな。アメリカ人は何でも世界一でないと気が済まないらしい。 エド・ウッドとは「史上最低の映画監督」と呼ばれながら反面、誰にも引けを取らない映画への熱意と愛情から、マニアックな映画ファンに愛された人物である。
 『エド・ウッド』の監督であるティム・バートンはじめタランティーノなど、いかにもな映画監督がファンだったりする。
 主役のエド・ウッドを楽しげに演じているのがデップなんだけど、映画を見ているうちに「あれ?この役者誰だっけ」と思った。つまり、強烈な印象のあるジョニー・デップという役者が消え、そこにいたのはエド・ウッド本人だった。
 私にはせいぜいそれ以前は『シザー・ハンズ』の人造人間のイメージしかなかったのだが、この映画を見てジョニー・デップという役者の力量を知った。
 (私が石原裕次郎や渡哲也といった連中が大嫌いなのは、彼らは何を演じてもあくまで石原裕次郎や渡哲也であり続けるからだ。役者としては大根もいいところである。彼等の「信者」って大抵頭が悪いでしょ。崇拝すべき対象が無いと生きていけない小市民にはむしろ役者が消えない大根役者の方が好ましいのだろう。さすがに近年こういう役者が少なくなってきたのは良い傾向だと思う)

 メアリー・スー「的」人物は何もフィクション作家ばかりとは限らないようだ。作者本人の分身どころか、まんま本人が「物語」で活躍するケースもある。
 「アラビアのロレンス」という名で知られるT・E・ロレンスなどがそうではないか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9 
 第一次世界大戦の中東における軍人としての彼の活躍は、彼自身の著書である『知恵の七柱』およびそのダイジェスト版である『砂漠の叛乱』で有名だが、これは多分に「脚色」が為されているらしい。
ピーター・オトゥール自身は188センチと背が高かった。ロレンスは身長165センチ。 スレイマン・ムーサの『アラブが見たアラビアのロレンス』によると、 アラブ側から見て事実の歪曲・大袈裟な美化・過剰な自己評価が見られると言うのだ。
 (アラブの諸部族を糾合した指導者の一人ファイサルは、当初ロレンスを周囲に居る大勢の外国人の一人としか見ていなかった。だから『砂漠の叛乱』にある「叔母から贈られた絹に金の刺繍が入った美麗な婚礼衣装をプレゼントされた」云々という記述などもウソで、実際に与えられたのはごく普通のアラブの衣服であり、これはアラブ人に交わって生活する外国人のための最低限の便宜の一つに過ぎなかった。明治時代の横浜には羽織袴を普段着として着こなしていた西洋人も居たそうだ。残っているマテオ・リッチの肖像画も中国の衣服の姿である)
 しかしアラブの独立を願うロレンスの真摯な思いは本物であり、だからこそ第一次大戦後に西洋列強に食い物にされつつあったアラブ諸国のためにも奔走したわけだが、自分を英雄視したい・されたいという激しい欲求も本物だったようである。
 (デヴィッド・リーン監督の映画『アラビアのロレンス』にも、婚礼衣装に着替えた自分の姿に陶然とする場面がある。リーン監督はロレンスという人間の本質を見抜いていたようだ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9_(%E6%98%A0%E7%94%BB
 生来のロマンティストであり、だから考古学者であると同時に優れた軍人であり得たのだが、このような人物には現実逃避と自己否定の傾向が伴う場合も少なくない。
 ロレンスは退屈な世界・退屈な自分に飽き飽きしており、だから苛烈な戦場に身を投じた。自己滅却、自分を消し世界の一部になりきる事こそが最大の望みであった。
 『砂漠の叛乱』を読んでいても、意外な事にメアリー・スーの臭いは全くしない。灼熱の太陽、乾ききった(清潔な)砂漠、血生臭い戦闘・・・ロレンスの目を通した情景と彼の冷静な思考の流れがあるだけで、読者は読み進むうちにたちまちその世界へと引き込まれる。作者の臭い自画自賛は欠片にも無い。
 それどころか作者個人は物語から消えている。 彼の「脚色」は自分を飾り立てるためではなく、自身が変容するため、むしろ今までの自分を消すためのものなのだ。ただ立ち位置、方法がメアリー・スー「的」なだけである。
 (遠まわしに)自分の分身を登場させながらもあくまでも自己賛美が濃厚な、しかし純然たるフィクション作家(実在の人物を素材に使ってはいるが)ではある池波とは正反対のパターンである。
 メアリー・スー、池波正太郎にも実は秘めた自己否定的傾向があったのかも知れないが(メアリー・スーには強い不満が付き物だ)、着地点がまるで違う。池波はロレンスほど突き抜ける事が出来ず、スイーツ(笑)じみた自己陶酔ばかりが鼻に付く。
 一個人が消滅して半ば普遍的なヒーローとして昇華される過程も物語も思索も無く、ただ個人ばかりがしつこくそこにある。

 思索的な人間、知的な人間は、分身どころか自分自身を主役として物語に登場させても、メアリー・スーにはならないものらしい。
 あぁ、読み物としては面白いですよ、池波正太郎の小説は(笑

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 私はニコニコ動画を日に一度以上、特に「落語」タグを確認してるんですが(子供の頃から好きだったんすよ)、「高橋邦子」なんかも楽しみにしてるんです。
http://dic.nicovideo.jp/a/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E9%82%A6%E5%AD%90
(ニコニコ大百科 『高橋邦子(タカハシクニコ)とは』)
 中にはインスパイヤ(笑)される人も居て、擬似邦子ワールドを作ってしまう人もいるんだが、こんなところにも腐女子の毒手が・・・(ひ、ひー!)
 ・・・あれ?消えてる。あまりの悪評に削除しちゃったか?
 腐女子の目線で高橋邦子的なストーリーを作ってたんだけど、作中に「俺たちホモが嫌われるのは・・・」というセリフがあった。
 作者も男だそうだが、腐女子しかファンが居ない事をどう感じているんだろう?それとも・・・? ・・・嫌われてるのはホモじゃなくて腐女子の方だろ!と瞬時に突っ込んだNO☆N☆KEの皆さんもたくさん居た事だろう(笑
 実際に自分がホモとかゲイとかオカマと呼ばれる人たちで、それをカミングアウト、世間に公表して堂々と胸を張って生きている人も多い。その毅然とした態度は人として立派だと思いますよ。
 だが人前で性的な行為に及ぶとしたら話は別である。
 これは何も男同士で乳繰り合う場合に限った事ではない。男女のカップルでもやはり不快に感じる人は少なくない。ここは日本であって欧米ではないのだ。
 (私は生物として間違っているのは欧米人だと思う。そういう油断しきった態度は自然界では非常に危険なものだし、これは人間社会でも同様である。欧米諸国では日本より格段に治安が悪い国が多いから尚更だ)
 そういう「破廉恥」な行為を衆目の下で見せ付けても当然だ、同性愛のどこが悪い!と開き直って論理のすり替えをするから腐女子は嫌われるんですよ。同性愛を差別しているのではなく、性的な行為をR-18の枠内で表現しないから、全年齢枠で発表するから世人の怒りを買うのですよ。
 pixivなんて場所では投稿される絵の半数ぐらいが腐女子の絵ではないか?と思えるくらい多い。
 全年齢枠で大きな顔して投稿されているので、見たくなくともサムネが目に飛び込んでしまう。実に不愉快。
 全裸ではないから、生殖器を露出していないからOK!というのは甘えではないか?
 通常、ホモではない男同士で熱い抱擁をする事など(全世界・全歴史どこを見ても)あり得ないから、そういう行為は十分「性的行為」と見なすべきだろう。
 加えて、全人口の約95%の男性は非ホモ(日経新聞の調べだと日本国内では約96%らしい)であり、大抵の場合「男同士の恋愛」に激しい拒絶反応を示すから、男女の恋愛よりさらに不快感が強くなる。
 (私はその男性の「恋愛傾向」で差別したりはしないが、「好きです!」と告られたら「ごめんなさい」します)
 いいですか?女性が何と言おうとも、当の男性が生理的嫌悪感を感じ拒絶反応を示しているのですよ?
 そこで腐女子がやれ差別だ偏見だと騒ごうとも、9割以上の「現実の男」が嫌がっているわけです。
 何で規制されないんだろ?おかしいと思いませんか?
 こういうBLって腐女子はあまり描かないでしょ(笑 ちなみに田亀先生はインテリらしいぞ そもそも腐女子側にしても、現実のホモを差別する場合が多いではないか。というのは、腐女子が作品の題材に取り上げるのはほとんどの場合(どこか女性的な外見の)「美青年」「美少年」であり、ガチムチの筋肉質の男性や毛深い男、肥ったオッサンなどはあらかじめ排除されているからですよ。
 (この点、男性が描くR-18枠の絵は実に多彩である。巨乳好きも居ればツルペタ好きも居り、スレンダーなキャラも居る一方でメタボ体型のキャラも居る。ロリコンも多いが熟女好きも少なくない。女の田亀源五郎ファンなんて居るのかね?男にしてもノンケのファンはいないだろうが)

 繰り返すけど、私はその人物の「恋愛傾向」で差別したりはしないが、性的行為はR-18枠限定でお願いしますよ。同性愛者であれ異性愛者であれ、人前ではやるな!って事ですよ。

 (ホモやレズといった人たちは生まれる以前、母親の胎内に居た頃にその性別に必要なホルモンを受け取れなかったケースが多いそうな。これを性同一障害という。いわば先天的な特徴であり本人に選択権は無かったのである。しかし同性愛者を擁護するあまりの「これは身障者ではないんですよ。そういうメンタリティなんです」という発言は微妙かと思う。身障者本人も何も好きで身障者になったり生まれたりはしないのだ。身障者にも同性愛者にも等しく人格と人権があるのだ。そこに差別はおろか区別さえ必要ない)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%90%8C%E4%B8%80%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3

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 桃鉄やった事ありません。 古来、年末になると貧乏の辛さを痛感するのが日本人の習性でありました(笑
 昔は「正月を迎えるための準備さえできないほど貧しい」、などとよく言われたものだが年末は何かと物入りであり、これは現代でも幾分言える事ではあるまいか。
 昔(明治時代くらいまで?)は売り声を上げて道で商売する行商人や飲食店などを除き、米・味噌・醤油や酒その他生活必需品の多くは「節季払い」と言って、年二回、8月と12月(つまり盆暮れ)にまとめて代金を支払うのが主な支払い方法だった。
 落語などでも、年の暮れに代金請求のために殺到する店の者相手に、何としても支払うまいと貧乏人が奮闘する『掛け取り』というネタがある。
http://www.niji.or.jp/home/dingo/rakugo2/kaketori.html
(東西落語特選 『掛け取り』)


【ニコニコ動画】落語「掛取り」 

 言うまでも無く、落語よりポピュラーだった民話という娯楽では、殊更に年末の貧乏は強調される。
 日本人は古くから農耕民族であり、牧畜民族に比べて季節の移り変わり・境目には敏感だった。だから農村では都市部より正月は大事だった。
 (江戸時代までの日本の村落はほぼ半分以上が農村か半農半漁の村だろう。漁村にしても農村と密接なつながりがあった)
 新年の祝いは新しい農業サイクルの始まりを祝福するための重要な習慣であり、これに十分な準備が出来ないのは大変辛い事だったに違いない。だから年の暮れの貧乏を扱う民話は多い。
 『笠地蔵』なんてその代表だけど、「貧乏」という状況をヴィジュアル的にわかりやすく表現したのが「貧乏神」という「神様」だろう。日本はさすが八百万の神の国である、貧乏の神まで存在するのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A7%E4%B9%8F%E7%A5%9E

 
【ニコニコ動画】まんが日本昔ばなし: おいだせ貧乏神


【ニコニコ動画】まんが日本昔ばなし 貧乏神の置きみやげ

 
【ニコニコ動画】まんが日本昔ばなし 年の晩と貧乏神
 

【ニコニコ動画】まんが日本昔ばなし 貧乏神と小判


【ニコニコ動画】まんが日本昔ばなし:貧乏神と福の神

 『おじゃる丸』に登場する「貧ちゃん」。この神様に触れられるとどんなにエネルギッシュな人でもたちどころに無気力になってしまうんだ!すごいね! 興味深いのは、貧乏=無気力という本質に気づいている昔話が多い、というところか。優れた洞察かと思う。
 実際、現代のセレブと呼ばれる人たちも、良くも悪くも無気力とは無縁な「働き者」である。(金の亡者も多いけどね。エグゼクティヴ気取ってても、ホントは金儲けにしか興味が無い・そういう才能しか無い俗物なんじゃないの?と言いたくなるような下衆も多い、という事ですよ。某巨大イラストSNS運営会社の社長とかね)
 人間、どんな努力家でも、努力し続けて全く成果が上がらない、誰も評価してくれない、全然報われない、という境遇が続くと大抵の場合、無気力で投げやりな態度が身に付くものである。努力には報酬が必要なのだ。
 これは行動学の専門家がハツカネズミなどの実験でも証明している。
 スイッチを押せば餌がもらえる仕掛けの中にハツカネズミを入れ、数日後スイッチをいくら押しても餌が与えられないようにすると、最後にはハツカネズミはスイッチを押さなくなり無気力になるそうだ。
 生き物は努力すれば何がしかの好ましい変化が得られ、新鮮な気分になれるからがんばるのである。
 だから貧しい男が魅力的な嫁をもらう(努力より先に「報酬」を与えられる)事で発奮し、身を入れて一生懸命に働き始めた事によって次第に経済状況が好転し、貧乏神が家に居辛くなる、というケースもある。
 (もっとも、好ましい変化、「報酬」は必ずしも異性や経済状況の好転とは限らないが)
 微妙に違う気もするがこれはこれでいいか。海外での評価の方が高そうだよねエウレカセブン。 またこれは、性的な欲求の刺激と充足が同時にあり、それによって旺盛な生活意欲が湧き上がる、という事かも知れない。変わり映えしない退屈な日常が魅力的な異性の登場によって刷新される事も多い。エウレカーッ!
 (英語のスラングで「人の肌」をfreshというのは、つまりそういう意味だ)
 また人間、自分のためではなく、大事な誰かのためにする努力の方が熱心になれる、というのもあるかも知れない。人は支え合って「人」という字になるのです。
 落語でも結婚に関して、「一人では食えないが二人だと食っていける」という意味の言葉がよく聴かれる。
 ・・・そうか。オレが貧乏なのは長く独身だからか(涙
 だが一方で貧乏すぎて嫁が愛想を尽かして逃げ出す、というケースも世間には多いそうな(笑


【ニコニコ動画】【落語】桂枝雀「貧乏神」  
http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakugo43.htm
(世紀末亭 【上方落語メモ第1集】その四十三 『貧乏神』)

 ↑この『貧乏神』という落語、新作落語それも枝雀存命中に作られたものなんだけど、作った「落語作家」は女の「弟子」(?)しか取らない事で有名でした。
 彼の嫁は元「弟子」だそうです(笑 ・・・なぁる。

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 12月ですね。またあの季節ですね。
 クリスマス?いやいや、忠臣蔵ですよ。


【ニコニコ動画】悪徳商人が【吉良ッ☆Ⅱ】星間飛行【忠臣蔵】歌ってみた
(吉良上野介の領地である愛知県は言うに及ばず、生まれた江戸でさえ当時は上方より文化の遅れた土地であった。上方の武家を田舎侍呼ばわりできる筋合いではない。あくまでフィクション上の操作、捏造だろう)

 日本人は昔からリベンジ大好き民族だからねぇ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%87%E8%A8%8E%E3%81%A1
 いや、民族を問わず人間は復讐劇が大好きらしい。
 ギリシャ悲劇なんかは半分以上が復讐の物語だし、シェイクスピアの作品も『ハムレット』は言うまでも無く『マクベス』『タイタス・アンドロニカス』『リア王』など、何と四大悲劇のうち三つまでが復讐悲劇なのである。(後の一つは『オセロー』。「オセロゲーム」の命名の元ネタ) 悲劇ではない、雰囲気の明るい『テンペスト』も復讐劇だな。
 ギリシャ神話には復讐の女神が何柱もおり、復讐の内容によって担当部署が分かれているほどである。
http://www.hampen.net/pandora/melpan/melpan049.html
 私が一番好きなスーファミのゲーム『メタルマックス2』も復讐の物語である。

【ニコニコ動画】メタルマックス2 お尋ね者との闘い/U‐シャーク
 (このうp主はよくわかっている。復讐する者は全てを失い、得るものは何も無いのだ。家族を殺した怪物を捜し求めるビイハブ船長の船の名前はネメシス号。ギリシャ神話の復讐の女神である。船上のBGMも「ネメシス」。ビイハブ島で流れる物悲しい楽曲は「流れ者の歌」。仇を求めて流離う復讐者は悲しい流れ者なのだ)

 日本三大仇討ちの中で規模・知名度ともに最大のものが忠臣蔵だが、世界的にも有名である。
 ティモシー・ザーンの『ブラックカラー』はSF版忠臣蔵だと言われているし、現在アメリカでは『ローニン47』という映画(翻案?『荒野の七人』みたいなもんか)が、キアヌ・リーヴス主演で制作が進められているらしい。
http://eiga.com/buzz/20081211/3/ 
 復讐という行為に伴うカタルシスと、関わりあった人々に降りかかる様々な悲劇、そして遂げられた後の虚しさ・・・復讐の物語には見る者を陶酔させる要素が目一杯あるが、当事者にすれば負担の大きい大事業である。
 近年の研究では、大石内蔵助は有能な人物ではあったが、同時に酒好き女好きでもあったそうな。
 遊蕩に明け暮れる日々は吉良一派のスパイの目を欺くためではなく、仇討ちを急き立てる無責任な世間の声に対する苛立ちと、計画実行への逡巡からくるストレスを紛らわすためであった、とも言われている。
 忠義という、やや古めかしいが日本人が大好きな美徳と、それを大義として遂行される英雄的行為。悪は滅び正義が勝つ単純明快な爽快感。
 だがそれだけだろうか。
 吉良上野介は元の領地である地元・吉良町では未だに名君とされているし、一方の浅野内匠頭は人格に障害があったのではないか、という説もある。
 浅野家の赤穂藩は元禄の世にあっても未だに戦国時代に近い人員編成であり、従って無駄に費用がかかるため、これが重い年貢となるので領民には評判が悪かった。吉良家とは対照的なのである。
 一説によると、浅野内匠頭切腹の報を聞いた領民には隠れて赤飯を炊く者もいたと言う。
 一応、平成2年には「和解」した赤穂市と吉良町だが、わだかまりが完全に無くなったとは言い切れないらしい。
http://www.town.kira.lg.jp/pub/machi_
syoukai/shinzen_chushingura/index.html

 映画やドラマでは、討ち入りは浪士たちと吉良家家臣たちの壮絶な死闘、とされているが(見せ場の一つだからね)、実際には討ち入り側による一方的な虐殺だったそうだ。ただの押し込み強盗みたいなものだ。

 赤穂浪士討ち入りを題材にした人形浄瑠璃および歌舞伎の演目に『仮名手本忠臣蔵』がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E5%90%8D%E6%89%8B%E6%9C%AC%E5%BF%A0%E8%87%A3%E8%94%B5 
 これを扱った落語は多い。
 歌舞伎役者の物語に『中村仲蔵』『淀五郎』、見立て(パロディ)ならば『蔵丁稚』『蛸芝居』『七段目』など。先に挙げた『小倉船』にも一節が登場する。

【ニコニコ動画】忠臣蔵特集 落語 「淀五郎」 金原亭馬生


【ニコニコ動画】落語 笑福亭松鶴(六代目) 蔵丁稚
 
 江戸落語にはシリアスなものもあるが、上方落語ではやはり仇討ちはパロディの対象なのである。
 仇討ち。復讐者つまり当事者が乗り気であるとは限らない。


【ニコニコ動画】ラジオ図書館「筒井康隆特集2・ワイド仇討ち」

 上の筒井作品では、登場する復讐者の大半が、嫌々ながら止むに止まれぬ事情から仇討ちの旅に出発している。当事者にとっては(違う意味でも)悲劇なのだが、無関係な世間からすれば格好の憂さ晴らし、この上ない娯楽となる。その様子が幕末明治に登場した新聞というマスメディアを利用する事によって鮮明に、しかも滑稽に描かれる。
 有名になりチヤホヤされる仇討ち一行もスター気取りだが、いつだってギャラリーは無責任なものである。
 ・・・実際、不本意な仇討ちのケースは少なくなかったんじゃないだろうか。
 忠臣蔵の四十七士にしても、会社が倒産して無職になったサラリーマンみたいなものだ。
 現代でも無職というのは不安で心許ない立場だが、江戸時代、特に武士という「職業」はつぶしが利かない。
 それは明治初期の頃の「武家の商法」から見ても一目瞭然である。(明治維新は全国一斉に「武士」という職業が無くなったのだから元禄の頃に比べればまだマシかも知れない)
 吉良邸討ち入りにしたところで、浪士たちの忠義ぶりのデモンストレーション、いわば就職活動ではなかったか、という見方もあるのだ。
 特に武門の家であり戦国時代の匂い(既に時代錯誤も甚だしいものであった)を色濃く残す浅野家の元家臣にしてみれば、他の家中の武士より武士以外への転職は難しかったのではなかろうか。
 (討ち入りまでに町人に身をやつした者もあったが、これは「本懐」を遂げるまでの辛抱だから我慢できたのだろう。吉良一派の偵察のための仮装、というのもあった)
 日本人は特に帰属意識にこだわる国民である。「祖国」(江戸時代は現代の連邦制に近い統治だった)を失うのは会社が倒産したりリストラされたりするイメージにつながりやすい。
 筒井康隆の『ワイド仇討ち』の復讐者たちは次第に旅を楽しむようになる。仇討ちは大変な仕事だが、藩と言う狭くて堅苦しい枠から解放されてウキウキしているのである。加えて世は「ご維新」である。幕藩体制も無くなって、仇討ちもやらずに済むかも知れない。
三船敏郎も出ているそうな。真ん中は森繁久彌か? これは筒井本人が小説家という自由業の人であり、しかも長らく(今でも?)尊敬される事が無かった職業であるSF作家だからだろう。SF作家には報われない者特有の、しかし自由人としてのプライドがあるのだ。
 筒井にしてみれば仇討ちなど不合理極まりない上に滑稽な、会社人種の行動様式の最たるものに見えるのだ。

 忠臣蔵はただの復讐劇ではない。サラリーマンの悲劇でもある。殺された人にはいい迷惑だ。

 

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